本格的に雪が降り始めた。
天の奥、遥か彼方から静かに舞い落ちる雪が、猫娘の視界いっぱいに広がった。
「寒……道理で」
口を動かすのも億劫になる程、顔が冷えていた。
積もる雪である。このまま振り続ければ明日の朝には横丁一帯真白な雪に覆われるであろう。世界が銀景色に染められる風景は好きである。ものも音も、全てを覆い包み、静寂が支配する。足跡を残す事が躊躇(ためら)われる皓(しろ)さが朝日に照らされるのだろうと想像する事は、楽しい。
――そろそろ、戻らなければね。
猫娘はちらりと妖怪長屋の方を振り向いた。蒼坊主が己を心配して様子を見に来てくれたが、このままずっと鬼太郎が戻ってくるまで外で待っているなんてしていたら、次は砂かけ婆自らが怒って顔を出すかも知れない。それもいいかな、等と思ったりもしたが、やはり、迷惑はかけられない。
「戻ろ」
自分に言い聞かせるように、猫娘は言葉を足下に落とした。
蒼坊主の言う通り、鬼太郎は勁(つよ)い。必ず戻ってくる。約束は違わない。それがちょっと遅れているだけだ。あたたかい部屋で待っていたらきっと笑って戻り「ただいま」と言ってくれる。
猫娘は踵を返した。
雪が優しく落ちてくる。
風が、なぶった。
猫娘は足を止めた。振り向く。そこは深い闇。何もない――否、違う。
風と感じたのは、それは妖気だ。
「っ!」
猫娘は道の真ん中まで走り、じっと一点、横丁の入口の方にあたる夜闇の奥を見つめた。
妖気は猫娘の頬を優しく撫でるように感じられ、その先にいるであろう存在を嫌という程感じさせた。
やがて、耳に心地好い下駄の音が聞こえてきた。下駄の音は相(かたち)になり、黒い帳の奥から人の容(かたち)が茫(ぼう)と現れてくる。猫娘の大きな目が見つめていたそれは、待ちわびたひとの姿をとった。
大きく見開いていた目は、嬉しさで充たされた。
「鬼太郎!」
猫娘は思いっきり手を振った。鬼太郎が答え、軽く手を振り返した。
「ただいま、猫娘」
鬼太郎が言った。闇色を纏い、雪が身を飾る鬼太郎は寒さを感じさせないいつもの飄々たる立ち姿をしている。しかし猫娘は鬼太郎の学童服の裾のほつれや彼の頬に残る擦り傷から、鬼太郎の戦いの様子を想像する。
「おかえり、鬼太郎」
そして、彼女は笑顔を絶やさずに今し方戦ってきた彼を迎えるのだ。
「すっかりおそくなっちゃってごめんよ。父さんなんか既に寝ちゃってさ」
鬼太郎はそう言って自分の髪の中を指差した。そこに彼の父がいると教えているのだろう。
「ううん。無事で良かった。お婆たちも蒼さんもみんな待ってるよ」
「蒼にいさんも来てるの?」
「そうよ。みんなで待ってたの」
猫娘は真っ赤な頬を持ち上げて笑った。ゆっくりと弧を描いた金の瞳は、まるで月のようだと鬼太郎は思った。
猫娘の手が、すっと前に差し出された。
「行こ」
そう、猫娘は言った。差し出された手は鬼太郎が応えてくれるのを待っているように伸びている。鬼太郎はその小さな手を見つめ、動かなかった。どうして欲しいのかは分かる。――でも、それをしていいのか。
自分の、同族を今し方殺してきたはかりの汚れた手で、清らかな彼女に触れてもいいのか。
戸惑う鬼太郎は自分の薄暗さを怯えているのであるが、猫娘にはそれは伝わらない。彼女は鬼太郎が手を繋ぎたくないだけなのだと、誤解した。
「あ、ははっ。ごめんねっ、あたしったらつい……」
今更ながら自分の浅はかさが身につまされる。猫娘は誤魔化すように自分の手を振り、胸元に収めた。
どこか遠くて、鐘の音がした。
除夜の鐘である。
「あ、鬼太郎。鐘だよ」
場の空気を恐れるように話題を切り替えた猫娘の声が、可哀想な程上擦っている。鬼太郎から目を逸らして鐘の音に耳を傾けようとする姿が、淋しく……またいじらしく。
――嗚呼、違うのに。
君がそんなに悲しい顔をする必要なんて無いのに。
……鬼太郎は何も言わず、猫娘の脇を通った。
少年の手が、静かに動き、少女の頬に触れた。冷気で凍ったように冷たい少女の頬より、触れている少年の武骨な手の方がほんのりあたたかい。少女の瞳が光る。少年の手には強引さは無い。こわれものを扱うような繊細な力で少女の頬に触れている。少女は顔を上げた。少年に触れられている場所に心地好さが広がる。そして……。
少女の頬に触れていた少年の手が滑り落ち、細い肩に置かれた。少年の顔がゆっくり動いた。
触れられていた反対側の頬に。
「本当に……」
やわらかいものが押し付けられた。
少女の冷たい頬はそれを驚きと興奮でもって迎え、全身に甘い痺れが走った。触れたものから灼熱の熱さが少女に広がった。少年のより伝わったものか自身の身の裡(うち)より発された熱なのか、分からない。それ程の近さを今まで感じた事等無かった。
「有難う……」
少年の声が少女の耳朶の傍で甘く囁く。
声が去る。それと同時に少女の肩に触れていた少年の手も離れていった。
蕩けてしまうような余韻を残し――鬼太郎が猫娘に背を向け、長屋の中に入って行った。
音も無く触れ、音も無く離れた唇が触れたのはほんの刹那の時間であった。己を包んだ心地好さと、甘い余韻に心奪われた猫娘は何事も無い雰囲気で当り前の日常に戻って行った鬼太郎の後ろ姿を追った。
「……もう……馬鹿」
不意打ちばかりいつも喰らっている。こっちが好意を全開にして向かってもスルーするくせに、たまに見せるそれが口惜しく、しかし、嬉しく、猫娘は鬼太郎が入って行った長屋の入口を見つめた。
寒さで沁みる風が冷たい。猫娘の頬は赤いままであったが、それは寒さの所為ばかりでは無かった。
<fin>