見上げると、凛とした星が天上一面を鮮やかに飾っていた。冬の空は空気が澄んで、遠くまでも透明に見える。星が落ちた。流星である。闇(くら)い天幕を裂く光の道が猫娘の双眸に反射した。
ほう、と、息を吐く。白い息は清らかに丸く浮かび、凍りつく程の冷たい空気に消えていく。吐いた息で猫娘は自分の手を温めた。手袋をしているが冷たさが指先にまで痺れを生む。厚手のタイツとブーツを履いているが、やはり足下からも冷気が上がり、猫娘は時々足踏みもした。
「寒いなぁ」
呟く。猫娘の背後は妖怪長屋である。寒いのなら中に入って暖をとればいいのに。と、自分の行動に可笑しみを感じているが、彼女は中に入ろうとは思わなかった。
「早く来ないかな」
待っているのである。
大晦日の夜、今年の終わりを長屋の仲間たちと共に過ごし、新年を一緒に迎えようと話した。その時答えてくれた彼の顔は今でも鮮明に浮かべる事が出来る。
最初、きょとんと目を丸くした。そして、猫娘が楽しげに話しかけるのを聞きながら、次第に興味を持って目を細めてくれた。
――「分かった。必ず行くから」
そう言ってくれた。
「鬼太郎……」
猫娘はさっきと同じように自分の手に息を吹きかけた。
雪が降るのではないかと思えるほどの冷たい外で、猫娘は鬼太郎が来るのを今か今かと心待ちにしていた。
身体が冷えているのだろう。猫娘は身震いの後、くしゃみをした。
「風邪引くぜぇ」
猫娘の背後から労わりの声が届き、そして、ふわりと背中が温かくなった。驚く猫娘の肩に、綿入れ袢天が羽織られていた。
「あ、蒼さん」
振り仰ぐとそこには兄のように慕う蒼坊主が居た。
大晦日の夜、壊滅的な方向音痴の彼が奇跡的に横丁へ戻って来たのだ。封印の旅も取り合えずの“仕事収め”をし、年越しを皆と一緒に過ごすのだという。
その蒼坊主が猫娘の身を案じて掛けてくれたのだ。
「女の子は身体を冷やしちゃいけねぇんだろ?」
「あはっ。有難う蒼さん」
「どういたしまして」
にやりと蒼坊主は笑み、猫娘の隣に立った。
横丁は夜闇を照らす星月の明りに照らされ、向かいの建物の瓦屋根までが淡く浮き上がって見えた。屋根だけではない。窓も、壁も、街灯も、地面に至るまで幽(ほの)かな青白い光に包まれて浮かんで見えた。猫娘の皓(しろ)い頬も、髪のひと筋、リボンの端も、月光を孕み、輝いていた。
その横顔は妙に大人びて見える。
――別嬪さんになったもんだ。
蒼坊主は猫娘の成長に只々感心した。女の子はちょっと見ない間にどんどん変わっていく、綺麗になっていくんだと少々オッサンじみた感想を抱く。ほうと吐く白い息すら艶やかに見える。
さながら、月の猫。
「へへ。言いえて妙だな」
「ん? 何? 何か言った?」
「否、わりぃわりぃ。独り言だ、気にしないでくれ」
思わず呟いてしまった独り言に、蒼坊主は苦笑した。
「変な蒼さん」
猫娘はそう言って、肩を竦めて笑った。そして、袢天の襟をしっかり掴み、空を見た。
「――鬼太郎、遅いね」
「そうだな。……でも事件なんだから仕方ねぇさ」
「うん……」
猫娘は俯いた。「只……この年末だっていうのに事件だなんて、何だか今年一年の終りがあまり良くない感じがして……」
「う~ん。そうだなぁ」
蒼坊主はポリポリと不精髭の生えた顎を掻きながら思案した。
「だからと言って、出掛けないのは鬼太郎らしくねぇわな」
「それは……そうだけ、ど……」
猫娘は鬼太郎の正義を否定している訳ではない。こちらの都合を考慮した事件なんてものは存在しないのだ。それは他ならぬ猫娘自身が一番よく理解している筈。
――今の彼女の不満は、只ひとつ。鬼太郎の身を案じての事。
いつもなら 事件が起きれば彼女も一緒について行く。鬼太郎のパートナー的な役割を充分担って傍に居る。しかし、今日は留守番をしているのだ。鬼太郎の力を信じていない訳ではないが、大切な存在である分、心配が付きまとう。――蒼坊主も猫娘のそんな心の機微を理解出来る器量は持っている。
蒼坊主の手が、ふわりと浮いた。
「猫ちゃんはホント優しい子だよなぁ」
ニッと笑む。そして、いきなり猫娘の髪をわしゃわしゃ掻き乱した。
「にゃっ!?」
猫娘は頭を下げて蒼坊主の手から逃れようとしたが、武骨で鬼太郎のより大きな手は簡単に離れない。
「こんなに優しくていい子は、あいつには勿体ねぇぜ」
からからと笑う。真冬の凍る夜闇の中、いきなりお日様が現れたような陽気な声だった。
「猫ちゃんの心配も良く分かるがな、あいつは強い。今までだってどんな逆境も必ず乗り越えてきたし、ひとりでだって戦ってきた」
「だから……」
「そうだな。猫ちゃんはそれを気にしてんだったな。――俺はあいつを小さな頃からよく知っている。誰にも心を開かなかった昔から、ずっと」
猫娘の咽喉がこくんと鳴った。
「……あの頃は甘える術も安らげる場所も奴には無くて、殺伐とした目をしていたが、今は違う」
はっきりと言い切った。
蒼坊主は自分の言葉の毅(つよ)さを猫娘に向けた。真っ直ぐに大きく目を見開いてこちらを見ている猫娘を見返した。
「今は、奴には“帰る場所”がある。安らげる空間や甘えられるひとが居る。それに……」
温かく太い指が、ちょんと猫娘の額を軽く突いた。
「こうして案じてくれる大切な子も出来た」
「蒼さん……」
「だから、奴は帰る場所が出来た分、負ける事は決してねぇんだ。帰る場所は守りたい場所だ」
仲間を。
この慎ましやかな平和を。
そして、この娘を。
奴は何が何でも守ろうとするだろう。
真摯な目で、星をいっぱい瞳に集めた真っ直ぐな目で己を見つめる猫娘に、蒼坊主はそう思わずにはいられなかった。
「――さ。そろそろ戻ろうぜ。俺、婆さんに猫ちゃん呼んで来いって言われてたんだ」
器用に片目を瞑り、蒼坊主が言った。
猫娘は頷いた。
この、懐の深い渾大(こんだい)なひとが鬼太郎のお兄さん的存在であって、また、自分にとっても親しみ深いひとであって本当に良かったと、猫娘は心から思った。
「うん。……でも、もう少しだけ待ってる。あと少しだけ、いいでしょ?」
甘えるような猫娘のおねだりに、蒼坊主は肩を竦めた。
「しゃーねぇなぁ。あともう少しだけだぜ? 早く中に入らないと婆さんたちが五月蝿いからな」
「うん。有難う」
猫娘が愛らしく笑んだ。外気温の低さに頬に目許、鼻頭、耳朶が真っ赤になっている。蒼坊主はもう一度猫娘の髪をくしゃっと乱し、長屋に戻って行った。――振り向いた時。
夜の光に照らされた黝(あおぐろ)さの中、少しだけ俯く猫娘の長い睫が蒼い翳をつくり、清らかな月光が欠片のように降り注いでいたのを見た。
天上からひとひらの雪が舞い落ち、彼女を包み始めた。
月の猫とはよく言ったものだ。猫の目は光の量によって大きさの変化する瞳を持つ。それが月の満ち欠けに擬(なぞら)える事はよくある話だ。そして、月は我ら陰の眷族においても象徴である。
されば、今ここで静かな容で立っている少女こそ、月に尤も近しい――愛されている存在なのではないか。
彼女は“猫娘”なのだから。
この月の猫は、天の月よりも地の彼を望んでいる。
全く敵わない話だと思う。そう思った後、何故に、誰に敵わないのかと自分の思考に可笑しみを感じ、蒼坊主は自分自身に鼻哂した。
<fin>