ハウトア~Hautoa~

 

 

 


五月晴れのやわらかな陽光が窓辺から射している午後。目玉親父は茶碗風呂にゆっくり浸かって呑気に鼻歌を歌い、鬼太郎は両手両足を伸ばしていつものように昼寝をしていた。
 何も無い、日。
 珍しく妖怪ポストへの手紙も無く、ねずみ男が下らない事件を引っ張ってくる事も無い。猫娘は人間界に買い物をしに行くと言ったきり、まだ戻ってこない。――実に静かな昼下がりであった。
 人間と妖怪の共存共栄という夢に向かって全力で生きている鬼太郎にとって、こういったおだやかさは自分の内なる霊力を蓄えるには必要不可欠。「眠り」は力の充填作業だ。それは、人間も妖怪も、同じ。
 木の葉の布団は陽に温められてほっこりとやわらかく、お日様の匂いというものを微かに漂わせている。幸せそうな笑顔を浮かべながら、鬼太郎は眠り――寝返りを打ったその手に何かが当たったのを感じて、目が覚めた。
 「――よぉ。やっと起きたか、不精者」
 皮肉屋の台詞が聞こえる。
 これは今は聞きたくない声だと内心強く思いながらも、真面目な鬼太郎は声のした方を見上げた。途端に、眉間に皺が寄った。
 長い黒髪と生成色の短衣。綺麗な顔立ちだと思われるが、如何せんその性格が邪魔をしているとしか思えない二枚目半な少年が、居た。
 何故、こいつが居るんだ。鬼太郎は一瞬、これは夢なのではないかと思ったが、少年が手に持つ紙筒で再度鬼太郎の頭をぐりぐりと押した為、夢ではないと理解する。
 「うざいっ! 地獄童子っ」
 いじる地獄童子の腕を乱暴に払いのけるように、鬼太郎は勢いよく上体を起こし、怒鳴った。茶碗風呂の中で気持ち良く転寝に入りかけていた目玉親父が驚いて身を滑らせ、危うく茶碗風呂の中で溺れそうになった。……鬼太郎は慌てて父親を掬いあげ、手拭いで丁寧に拭いた。
 「いきなり大声をあげる奴があるか、馬鹿者!」
 「すみません、父さん」
 小さな父親に怒られて、父より大きな身体の息子がしゅんと小さくなる。――そんな情景を見て、地獄童子は面白そうに笑った。
 「あっはははは……。ホント、面白い奴だなぁ」
 「お前には言われたくないね、絶対」
 大笑いする地獄童子を、鬼太郎は冷たく一瞥した。
 「所で地獄童子よ。お前さん一体何の用でこっちへ来たんじゃ? よく、人間界に来られたもんじゃな」
 身を拭きあげ、一段落した目玉親父が地獄童子に訊ねてきた。童子は笑いを収め、真面目な――仕事顔をして、目玉親父と鬼太郎の前、ちゃぶ台の上に紙筒を開いて見せた。

 ――巨(おお)きな肉の塊のような妖怪の、手配書だった。

 「これは?」
 鬼太郎が問う。地獄童子は手配書の中の筆で描かれた絵を軽く指で突いた。絵が動く。巨大な肉の塊のような上部に大きな口が開き、赤い一つ目が睨む。背後の触手が蠢く――少しばかりグロテスクな妖怪であった。
 「地獄から脱走しやがった妖怪だ。もとは人間の死肉を食い漁っていた妖怪だったが、ある時生きた娘の肉の味を知ってな。それからは人間……特に娘の肉を喰らい続け、とうとう罪の深さに地獄へ連行されたんだ」
 地獄童子は、そこで一呼吸置いた。
 五月晴れのうららかな陽気にはそぐわない会話だと、ふと、他人事のように思ったからだ。
 鬼太郎の表情が話題に入り込んでいるのを見て、再び口を開いた。
 「地獄の裁判の結果、奴に600年の溶解刑の判決が下された。が、その処刑の前に……」
 「脱獄して、そして再び人間界へ舞い戻って来たんだな」
 地獄童子の台詞を鬼太郎は先読みして、結論を言った。地獄童子は神妙に頷いた。
 「そうだ。――鬼太郎」
 胡坐を掻いて姿勢を崩していた地獄童子が、急に正座をした。背を伸ばし、両腕を大腿に揃え、形の良い座り方で真っ直ぐ鬼太郎を見る。その真剣な形に鬼太郎の方がたじろぎ、思わず身を引いた。
 地獄童子は真摯な声音で鬼太郎に訴えた。
 「頼む。奴を捕獲するのを手伝って欲しい」
 ――あ。やはりそうきたか。
 ある程度、話の流れからそれは予測していた。
 鬼太郎としては、これはすぐ承知してやる内容の話だとは思っている。地獄から人間を――それも娘を好んで喰らうという悪趣味な妖怪など出ようものなら、人間界が混乱と恐怖に苛まれるのは必定。目に見えて分かっている。分かっているが……。
 「しかし、これは地獄の不祥事だろ?」
 「鬼太郎!」
 彼の父が窘(たしな)めてくるが、どうしてもこの一言を言ってやりたかったのだ。
 地獄童子は案の定、奥歯を噛みしめたような苦りきった顔を見せた。
 「――烏天狗たちにも応援要請はしている。だが……未だに何の連絡も無い」
 地獄童子は彼なりに手は打っているというらしい。しかし、一向に事態は好転していないのが、目の前の顔から見てとれる。
 この、ひどくプライドの高い少年の困りきった顔を見ただけでも、鬼太郎としては面白いものが見れたと思っている。
 「ふぅむ。烏天狗たちでも手がかりが掴めんのか」
 目玉親父が腕を組んだ。
 「……分かった。協力するよ」
 もう少しいじめてやってもいいんじゃないか、とも思ってみたが、鬼太郎は自分を見上げる父の視線をまじまじと感じ、素直に応じる事にした。
 「悪い。感謝する」
 地獄童子が――頭を下げた。どうやら本気で困っていた様子だ。
 「地獄童子、頭を上げてくれよ」
 からかうつもりが大真面目な相手に、鬼太郎は調子が狂う。
 頭を下げている地獄童子に声をかけた時――背中に突然緊張が走った。ほんの一瞬だけ、膨らんだ妖気を感じた。咄嗟に妖怪アンテナを立ててみる――が、反応は現れない。
 「鬼太郎?」
 地獄童子が訝しげに鬼太郎を見るが、鬼太郎は頭を振り、妖気を追うのを諦めた。
 「何でもない。僕の勘違いかも知れないから」
 そう言いながらも、不安な予感が胸を過ぎる。……窓の外は明るいのに、胸の中は急に昏(くら)くなった。

 


 空色の靴が慌ただしく走り、真っ直ぐに森を抜け、鬼太郎宅へ向かってた。ぽかりと拓いた空間に建つツリーハウスの梯子を手早く登る白い足と黒い髪。息つく間もなく細い指が簾を開いた。
 「鬼太郎さん、大変よ!」
 「ユメコちゃん!?」
 簾を開いて顔を覗かせたのは、天童ユメコだった。彼女は蒼い顔で鬼太郎に何かを訴えてくる。その様子が切羽詰まったものである為、鬼太郎は素早くユメコの許に行き、喘ぐ少女の肩に優しく手を置いた。
 「どうしたんだい? 何かあったのかい?」
 近くに地獄童子が居る。今し方彼に協力をすると約束したばかりである。今ここでユメコの方に肩入れをする事が童子にどう思われるのか、分からない訳ではないが、ユメコの様子はただならないものがある。
 ところが、ユメコからの情報は鬼太郎も地獄童子も驚きを禁じ得なく――その偶然に唖然とした。
 「妖怪がね、人を食べようとする恐い姿の妖怪がね、現れたのよ!」
 偶然が必然を呼び寄せた。
 鬼太郎にはそんな言葉が浮かんだ。
 「それはどこなんだ!?」
 地獄童子がユメコに喰いつく勢いで詰め寄る。童子のその剣幕に、ユメコは怯み、鬼太郎の腕にしがみついた。
 「地獄童子、ユメコちゃんが恐がってるだろ」
 鬼太郎にたしなめられ、ユメコに詰め寄っていた地獄童子は憮然と腰を下ろした。――まるでこの娘のナイトのような振る舞いの鬼太郎。地獄での一件の時でもそうであったのだが、今、ここで見せられるのは、妙にイライラする。そんな地獄童子の視線など意に介さず、鬼太郎はユメコに訊ねた。
 「それはどこなんだい?」
 「私の家の近所。――猫娘さんがたまたま通りかかって、助けてくれたの」
 「何だって!?」
 鬼太郎の表情が変わる。驚きから焦りに。ユメコはその様子を見ながら、強く頷いた。
 「猫娘さんが逃げろって私に……。私、この事を早く鬼太郎さんに知らせなきゃって……」
 「くそっ」
 ユメコの台詞を最後まで聞かずに、鬼太郎は訴えてくるユメコから離れ、外へ出た。梯子を降りるのももどかしくそのまま地面に飛び降り、オカリナを吹いた。
 清らかな音色が、ゲゲゲの森に木霊する。
 やがて、森の奥から一反木綿が飛来した。
 「どげんしたと? 鬼太郎……」
 「事件だ。力を貸してくれ」
 有無を言わさぬ口調で、鬼太郎は一反木綿に言った。
 「ちょっと待て、鬼太郎!」
 家の中から慌てたように、目玉親父を肩に乗せた地獄童子とユメコが現れた。今にも一反木綿に飛び乗って妖怪の出現場所に向かおうとするのを、寸での所で止める。
 「お前、勝手な事をするなっ! これは俺からの……」
 「五月蝿(うるさ)い! 一緒に行くならさっさと乗れよ!」
 鬼太郎の喰い付かんばかりの勢いに、些(いささ)か、呆れる。
 ――この態度の違いは、何なのだ。
 「鬼太郎さん、私も行くわ」
 ここに又、鬼太郎の剣幕に動じない娘が居た。ユメコは強い語気で鬼太郎に詰め寄った。
 「駄目だ。危険なんだよ」
 「でも、猫娘さんは私を助けてくれようとしたのよ!?」
 「ユメコちゃん……」
 ユメコを危険な目に遭わせたくない。いくら地獄童子と一反木綿がユメコをしっかり守ってくれるだろうと分かっていても……それでも、やはり彼女は儚い人間なのだ。
 鬼太郎の迷いと、ユメコの決意に噛み合わないズレを感じている。が、これでは中々先に進まない――地獄童子は内心で溜息を吐いた。
 「連れて行ってやんなよ、鬼太郎」
 「地獄童子?」
 鬼太郎の逡巡をあっさり打ち消すような地獄童子の台詞に、鬼太郎は驚く。しかし、童子は鬼太郎の不安など一笑に付した。
 「地獄を旅した事がある人間だぜ? 度胸は並みじゃねぇだろ」
 あの旅の話を持ち出して、言い放つ。今ここでそれを持ち出す事もなかろうと鬼太郎は思うのだが、目の端でユメコの表情を見ると、折れそうにない勁(つよ)い瞳が鬼太郎を見据えている。――こっちが折れるしか無いのだ。
 「分かったよ。一緒に行こう」
 鬼太郎がそう言うと、ユメコはホッとしたように頷いた。

 


 しかし、ユメコを連れて来たのはある意味正解だった。
 ユメコの的確な指示の下、一反木綿に乗った鬼太郎たちは真っ直ぐに目的地にたどり着く事が出来た。
 暖かな日光の下は本来なら陽の眷属で、陰に属する妖怪たちが大手を振って跋扈(ばっこ)するのは異常ともとれる。だが、その異常の中にあって妖怪たちは己の存在を認めろとばかりに人間を襲い、世を呪う。
 光に照れされた肉塊――妖怪は血の気の無い青黒い身体をしており、四肢は肉の下に隠れている。かろうじて爪先に紅い爪が見えるが腕は細く、殆ど分からない。腕の代わりをしているのであろうものは、背にある黒い触手。うねり、伸び、器用に波打っている。
 
 その先に居るのは――。

 「猫娘!」
 鬼太郎は上空から飛び降りようとした。
 「待て鬼太郎! 考え無しに行く馬鹿があるか!」
 地獄童子が止めなければ、鬼太郎はそのまま妖怪相手に攻撃に転じていたであろう。ちゃんちゃんこの端を捕まえられ、鬼太郎は鋭く地獄童子を睨みつけた。
 「奴を倒せばいいんだろ! 放せよっ」
 「落ち着けってば! そうじゃない、奴を捕獲する事が目的だっ」
 「どうせ処刑する奴なんだろ」
 激昂する鬼太郎は地獄童子の説明を聞く気は無い。今、この下で手配書にある妖怪の触手に、両手を拘束されて身動きが出来ない猫娘が居るというのに、助けに行かせない気でいるのか、と、鬼太郎の隻眼は冷たく怒っている。――傍らのユメコが、蒼い顔で鬼太郎の昂(たかぶ)りを見ている事を気付かない位に。
 「鬼太郎!」
 髪の中から目玉親父が叱責した。地獄童子の声も届かない鬼太郎であっても、父の声は耳に入る。鬼太郎の鋭い眼光の力が急激に衰える。
 「……父さん」
 「落ち着くんじゃ。お前は目の前の事しか見ておらん。――地獄童子に手を貸す事が猫娘を救う事になる。分かるな? 鬼太郎」
 冷静になれ、と、父に諭される。鬼太郎は咽喉(のど)に込み上げるものを呑み込むように、息を詰まらせた。
 ――何をこんなに焦っているんだ? 地獄童子には鬼太郎の焦燥が分からない。その原因であるのが、あの足手まといのような猫娘であるというのが、どうも理解に苦しむ。
 砂かけ婆や子泣き爺のような――単なる仲間、じゃないのか?
 鬼太郎の顔色を見ながら、地獄童子はゆっくりと言った。
 「奴を動けなくするだけでいい。後は、烏天狗たちに任せるつもりだ」
 「動けなくすれば、いいんだな」
 「そうだ。ただし、何度も言うが捕獲だぞ」
 「分かってる」
 やはり、イライラしている。
 地獄童子には、会話を終わらせて背を向けた鬼太郎の心境が、分からなかった。
 「あっ。猫娘さん!」
 突然ユメコが叫んだ。ユメコの指が、猫娘を指す。

 猫娘は只捕まって――地獄童子曰く足手まといになって――いる訳では無かった。
 捕まえられた両腕にぐっと力を入れ、懸垂のように身を上げ、そして……。

 「……噛み付きやがったぜ、あいつ」
 唖然。
 何て女だよ、あいつは。
 地獄童子は猫娘の形振り構わずといった感じの勇姿に呆れ――感動もした。
 猫娘の腕を拘束していた妖怪の触手が緩み、猫娘は落下した。無様に転ぶ事はせず、ひらりと猫の属性のまま身軽に立ち、そして、見据えた。
 彼女は、言い放つ。


 「あたしは誇り高き猫族の娘! 自由を履違えてるあんたなんかと一緒にしないで!」


 毅然と。それに、凛、と。
 ――今、すっげぇ格好良いと、思っちまった。口惜(くや)しい位に。
 地獄童子は、ふと、鬼太郎の背中を見た。先程までの尖りが消えている。それを見て、感じて、瞬時に悟った。
 そして、それが間違いではない事も、確信した。
 猫娘に妖怪の鋭い触手が伸びた。
 ユメコが両手で顔を覆う。傍らに居る鬼太郎は隻眼で地獄童子を見――驚いた事に、笑った。
 「きた……」
 地獄童子が名を呼ぼうとした矢先、鬼太郎は、跳んだ。両手両足を広げ、風に馮(の)り――風そのものになって、一直線に降りた。
 彼の目的は、猫娘救出だ。
 そのついでに、妖怪を捕獲するつもりだ。
 地獄童子はそう理解し――正直口惜しいのだが、妙に清々しい口惜しさに、鼻哂(びしん)した。

 

 ――鬼太郎が、いとも易く手配妖怪を捕獲するのは、この後。しかし、それはまた別の話。

<fin>

『風と花びら~妖怪奇譚~』の大和さまから、

サイト開設一周年記念の3期ssをいただいてまいりました!

大和さま、どうもありがとうございました!!

 

 

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