柚子

 

 

 

 

日が傾くと、急に寒くなる。
陽だまりの暖かさに誘われるまま、心地よいまどろみに身を任せていた鬼太郎は、肩がすっかり冷えてしまったことに気づいて、ゆっくりと上体を起こした。
少し前まで暑い暑いと言っていたのが嘘のように、過ごしやすくなったなと思ったのも束の間、もう冬の足音が聞こえている。
「――ずいぶんと冷えてきたのう」
自分と同じように午睡を決め込んでいた父親の言葉に、そうですね、と鬼太郎は返事をする。窓から見える木々を飾るのは、眩しい緑の葉ではなく、鮮やかではあるが寂しげな赤や黄色。それももう随分と落ちて、むき出しとなった枝の間を、初冬の風がひゅうと音を立ててすり抜けていく。
太陽が沈みきるまでにはもう少し時間がかかりそうだが、家の中はすでに薄暗く、熾火となっている囲炉裏の火を起こしなおそうと、鬼太郎は立ち上がった。
「ネコ娘はまだ来とらんのかの?」
目玉の親父が自分のことを、娘のように可愛がってくれていることを知っているネコ娘は、よほど忙しくない限り、日に一度はこの親子の家に顔を出す。そして男所帯の鬼太郎たちの世話を何くれとなく焼き、楽しげに父親と会話を交わす光景は本当の父娘のようで見ていて目に温かく、鬼太郎もネコ娘の来訪を楽しみにしていた。もちろん理由は他にもあったが、それは、まだ口にしたことはない。
「……ちょっと、遅いですね」
日が短くなって、帰りが遅いのは危ないからと目玉の親父に言われ、ネコ娘はここ最近、夕方からのバイトを止めている。だから普段なら、とっくに訪れていてもいい時間なのだ。
もしかして、昼寝をしている間に来たのかもしれないな。
鬼太郎はそうも考えたが、すぐにそれを打ち消した。その場合は彼女のことだから、手紙とか置き土産とか、何らかの印を残していくはずだ。
何か――あったのだろうか。
心が小さくざわつき始めたころ、やっと外の階段を上ってくる、軽やかな足音が聞こえた。鬼太郎は急いで炉端に腰を下ろし、火かき棒でやや乱暴に囲炉裏の灰をかき回す。
「こんにちは。遅くからごめんね」
「――やあ、ネコ娘」
心配していたことなどおくびにも出さず、鬼太郎はごく自然に言葉を返した。
「やだ鬼太郎。そんなにかき回してたら、せっかくの火が消えちゃうじゃない」
ネコ娘はそう言って、鈴のような声で笑う。
今まで薄暗かった家の中が、急に明るくなった気がした。

「今日は何かあったのかの?」
ネコ娘が用意してくれた茶碗風呂に身を沈めながら、目玉の親父は彼女に尋ねた。
心配かけてごめんなさい、とネコ娘は素直に謝り、理由を話す。
「バイトの帰りにね、ある家の庭先にとっても立派な柚子の木を見つけたの。黄色い大きな柚子がたくさん実っていて、すっごくいい香りがしててね…思わず立ち止まってしばらく眺めてたの。そうしたらその家の人が出てきてね、『立派な柚子ですね』ってつい話しこんじゃって…。その人はもうおばあちゃんで、柚子を採るのも大変だし、一人暮らしでこんなに実ってもどうしようもないから、欲しいなら好きなだけ持って帰りなさいって言ってくれて――あ、お茶が入ったよ」
ネコ娘はそこで一度話を区切り、鬼太郎の前に緑茶を注いだ湯呑みを差し出した。立ち上る温かな湯気と、豊かな香りに何となくほっとして、鬼太郎はネコ娘に礼を言って口をつける。ネコ娘はそれを笑顔で受けると、自身も両手で包みこむようにして湯呑みを顔の前に持ち上げ、ふぅ、と優しく息を吹きかけた。
「――最初は遠慮したんだけど、本当に困ってるみたいだったから、思い切って知り合いに銭湯をしている人がいるから、そこで使わせてもらってもいいかって聞いてみたの」
「…お歯黒の銭湯?」
「うん。ほらお歯黒って、いっつもお風呂のアイディア考えてるでしょ?だから柚子風呂なんかどうかなって思って――で、そうしたらおばあちゃん、ぜひどうぞって言ってくれてね。それならこの籠を使いなさいって、大きな籠まで貸してくれて…」
ネコ娘は手を広げて籠の大きさを示した。それはゆうに一抱えもあったようで、鬼太郎はその大きさに思わずうわ、と声を上げた。
「そんな大きな籠、持って帰るの大変だっただろう?言ってくれれば手伝ったのに」
「ありがとう。そうしようかな、とも思ったんだけど、たまたま鷲尾さんが通りかかってね…」
「鷲尾さんが?」
「うん。ろくちゃんに会いに横丁に来る途中だったんだって。鷲尾さんって細いから、大丈夫かなってちょっと思っちゃったんだけど、やっぱり男の人って力があるのね。あたしがやっとの思いで持ち上げた籠を、軽々と持ってくれて…とっても助かっちゃった」
「…そう」
「横丁に来るまで、鷲尾さんとたくさん話をしたの。鷲尾さんって本当に物知りね。それに親切で、落ち着いてて、大人の人って感じで。あんな素敵な人に想われて、ろくちゃんも幸せよね」
それから鷲尾とどんな話をしたか、ネコ娘はやや興奮気味に喋り始めた。最初はそう、へえ、と相槌を打っていた鬼太郎だったが、やがて押し黙ってしまった。仕事のこと、ろくろ首のこと、さらには鷲尾が最近買ったという自動車の話……ネコ娘の口は滑らかに動き、鷲尾の名がその口先にのぼるたびに、鬼太郎は自分がどんどん不機嫌になっていくのがわかった。
鷲尾さん、鷲尾さん。君はさっきからそればかり。僕が聞きたいのは、そんな話じゃないんだよ。なのに君は本当に楽しそうだね。鷲尾さんの隣でも、そんな表情(かお)をしてたのかい――…。
ささくれ始めた心を取りあえず落ち着けようと、わざと音を立てて啜ったお茶はすでにぬるくなっており、温まっていた身体までもが、急速に冷やされていく。
ネコ娘の話は止まらない。鬼太郎は彼女を見ないようにして、すっ、と息を吸った。
「でね、そうしたら鷲尾さんが…」
「…ねえ!」
鬼太郎の声の大きさに驚いて、ネコ娘が話を止める。鬼太郎は口を押さえ、自分もその声に驚いた、という表情をしてみせる。
「――ごめん、びっくりさせちゃって。ところで、柚子はお歯黒のところへ持っていったの?」
「あ、そうそう。お歯黒、これはいいって、すごく喜んでた。だから今日行ったら柚子風呂に入れるわよ。勿論あたしもあとで行くつもり。鷲尾さんもどうぞって言われてたけど、鷲尾さんは約束があるからって、すぐにろくちゃんの所に行っちゃった」
「ほう、柚子風呂か。それは良いのう」
「そうですね。僕たちもあとで入りに行きましょうか」
「行ってはみたいが、わしは柚子に潰されるかもしれんからのう…」
目玉の親父は溜息をついた。確かに目玉の親父の大きさでは、たかが柚子とはいえ少々危険かもしれない。残念がる父親を慮って、じゃあ僕も止めておきますと鬼太郎は言いかけたが、それは当の目玉の親父によって遮られてしまった。
「なあに。わしはこの茶碗風呂で充分じゃ。鬼太郎は気にせず入ってくれば良い」
「ですが…」
「あ、そうだ。いいもの持って来たんだった」
うっかり忘れるところだったわ、と両手を軽く胸の前でつき合わせ、ネコ娘はいつも持っている鞄から小さな瓶を取り出した。瓶の中で少し濁りのある、淡黄色の液体がたぷんと揺れる。
「これ、柚子を搾ってきたの。親父さんの茶碗風呂に柚子をそのまま入れるのはちょっと無理だから、これだったらいいんじゃないかと思って…」
そう言いながらネコ娘が瓶の蓋を開けると、柚子独特の、爽やかな酸味のある香りが部屋の中に広がった。
「おお、それは有難い。さすがはネコ娘じゃ。早速入れて貰うかの」
目玉の親父は嬉しそうに目を細める。ネコ娘も快く返事をして、匙にすくい取った柚子の果汁を茶碗風呂へと落とした。
「――ふむ、よい香りじゃわい」
肩まで湯に沈めた目玉の親父が満足気にそう呟くと、その様子を見ていた鬼太郎とネコ娘は、顔を見合わせてくすりと笑う。
「ありがとう、ネコ娘」
「どういたしまして」
そしてネコ娘は、これまた使ってね、と鬼太郎に瓶を渡すと立ち上がった。
「じゃあ、今日は帰るね」
「――もう帰るのかい?」
「うん、お歯黒のところへもう一度行ってこなきゃ。柚子がちょっと残ってたから、置いておいてって頼んであるの。柚子味噌を作って、柚子をくれたおばあちゃんにお礼に持っていこうかなって」
「へえ。それはいいね。きっと喜んでくれるよ」
「だといいな。たくさんできたら、ここにも持ってくるからね」
「ありがとう」
「やだ、お礼はまだ早いわよ。まだ作ってもいないのに」
「あ、そうか」
頭を掻く鬼太郎に、ネコ娘は肩を小さく竦めてふふ、と笑う。
「じゃ、また来るね」
「うん。僕もあとでお歯黒のところへ行くことにするよ」
ネコ娘は来た時と同じように軽快な足取りで階段を下り、横丁へと向かう。
ちっとも早くなんかないさ。だって、君のその気持ちが嬉しいんだから――。
やがて森の木々に隠されてしまう背中に、鬼太郎は胸の内で呟いた。


太陽に別れを告げた、灰色がかった滑らかな蒼い空には、白い月がぽっかりと浮かんでいる。周囲は徐々に闇に沈みはじめ、横丁に軒を連ねる店先に、ぽつぽつと温かな明かりが灯る。
お歯黒べったりの銭湯――大風呂屋敷は、横丁の一番奥まったところにどっかりとその腰を据えていた。さらにその奥には鬼太郎の家へ通じる森が厳かに鎮座している。つまり鬼太郎の家から来るとするなら、大風呂屋敷こそが横丁の入り口となる。鬱蒼とした森を抜け、道が石畳に変われば、すぐ左手に白い壁が現れた。
ネコ娘はお歯黒のところへ寄ると言っていた。ならばそのついでに、柚子風呂を楽しんで帰るだろう。彼女がどれほどの時間を風呂で費やすかは知らないが、決して自分のように短くはないはずだ。
待っていた、と思われるのは少々きまりが悪いので、鬼太郎は慎重に頃合いを見計らいつつ、下駄だけはカランコロンと呑気そうな音を立てるように気をつけて、大風呂屋敷に向かった。
しかし屋敷の前に求める姿は――ない。
まだ出てきていないのか、それとももう帰ったあとなのか。「女」と紺地に白で大きく書かれた暖簾の向こうを覗くわけにもいかず、一度だけ横丁の方へ首を巡らせ、ネコ娘の姿がないことを確認してから、鬼太郎は同じ紺色の暖簾の「男」という文字の下をくぐろうとした――その時。
「それじゃ、貰ってくね!ありがとう、お歯黒!」
「礼を言うのはこっちの方さ。柚子をくれた人間に、ようく言っておいておくれ」
「はーい!――あ、鬼太郎!?」
大風呂屋敷から跳ねるように飛び出してきたネコ娘に、ことさら弾んだ声で自分の名を呼ばれ、鬼太郎の胸は不覚にもドキリと音を立てる。
「……やあ、ネコ娘。これから帰るのかい?」
「うん。すっごく気持ち良かったわよ、柚子風呂」
そう言ってネコ娘はふわりと笑う。湯上りのほんのりと上気した頬は、まるで紅をさしているようだ。いつもより大人びて見えるその表情に、鬼太郎は狼狽する。それをどうにか誤魔化そうと、ネコ娘の持っている白い手提げ袋を指さした。
「――ねえ、それは、柚子?」
袋は丸い形にぼこぼこと膨らんでいて、結構な量の柚子が入っているようだった。そうよ、とネコ娘は少し重そうにその袋を持ち上げる。
「思ったよりたくさんあったの。これならきっと鬼太郎の分もできるわ」
「ありがとうネコ娘――君はいつも、本当に優しいね」
鬼太郎がそう言うと、ネコ娘は一瞬驚いたような顔をする。そしてすぐに顔を赤らめて俯き、袋の持ち手をもそもそと弄りながら微かな声でそんなことないよ、と言った。
袋の口からは黄色い柚子が顔を覗かせている。鬼太郎の心がざわりとさざ波を立てる。
耳の奥に蘇るのは、ついさっきネコ娘が嬉しげに口にしていた、あの名前。

鷲尾さんがね――…。

目の前で面映ゆそうに顔を伏せ、小さく尖った耳をその先端まで赤く染めているこの少女が、あの人間の男に心惹かれることがあるとは思っていない。ただこれから先、柚子を見て彼を――彼の優しさを、思い出すこともあるのだろう。そう思うと胸の底を炙るような苛立ちと、焦燥感を覚えずにはいられなかった。
ひどく子供じみた感情だ。僕がこんなことを考えていると知ったら、君はどんな反応をするだろう。鬼太郎は自嘲の笑いを洩らす。それでもまだ、柚子の黄色は胸に痛い。
鬼太郎は、口を開いた。
「……ねえ。柚子の匂い、ちょっと嗅がせてもらってもいい?」
「え?…あ、うん、もちろん」
ネコ娘はほっとしたように顔を上げて、袋を持ち上げようとする。鬼太郎はネコ娘に一歩近づき、彼女の肩に手を乗せる。
「鬼太郎…?」
訝しがるネコ娘には構わず、鬼太郎は顔を寄せた――柚子ではなく、彼女の首筋に。

何が起こったのか、わからなかった。
何故だか肩を掴まれて、頬に風が触れた――と思ったら、それは、鬼太郎の髪の毛だった。
耳のすぐ側ですう、と息を吸い込む音がして、空気が流れた。
――どうしてあたしは、鬼太郎の肩越しに景色を見ているのだろう?

「…!」
ネコ娘は、肩に置かれた鬼太郎の手を思わず振り払った。せっかく色を取り戻した頬が、音が聞こえそうなほどに勢いよく、再び朱に染まった。形良い鳶色の瞳が、大きく見開かれている。
「あ、あたしっ…!」
ネコ娘は柚子の入った袋を胸元に手繰り寄せ、抱きかかえるように持ち直す。
「…かっ、帰るっ!」
言うが早いか、くるりと踵を返し、風のように駆けだした。
後ろなんか振りむかない。振りむけない。肩越しの風景、首筋の温もり。一瞬の間に深く刻み込まれた記憶が、胸の鼓動を高めていく。
両手で掻き抱いた袋の中で柚子が揺れ、ネコ娘は夢中で走った。

――鬼太郎は、ゆっくりと手を下ろす。そしてやや緩慢な動作で、視線を大風呂屋敷の入口へと移す。
「そう言えば、風呂に入りに来たんだっけ……」
鬼太郎はそう独りごちて、暖簾をくぐった。

番台に座っていたお歯黒べったりに聞いたとおり、大浴場には誰も入っていなかった。
鬼太郎は身体をごく簡単に洗って、幾つもの柚子がぷかぷかと漂う湯船に浸かる。蜜柑などと比べれば少しごつごつとしていて無骨な感じもするが、風呂の湯によって温められた黄色い果実は、爽やかでほのかに甘い芳香を、惜しげもなく分け与えてくれている。
鬼太郎は柚子を一つ掴むと鼻に寄せ、息を吸った。
それは――ついさっき猫の化身である少女から嗅ぎとった匂いと同じもので。
普段はほとんど色を変えない鬼太郎の頬が、わずかに色づいた。
あの時、唇が触れそうなほどに近づいた肌理細かな白い肌からは、確かに柚子のほのかな香気が立ちのぼっていた。だけど柚子の香りよりも、もっとはっきりと嗅ぎとってしまったのは。

ネコ娘自身が持つ、匂い。

その甘さに、頭の芯が痺れた。胸が震えて、何故だか泣きたい気分になった。抗うことの難しい引力が、そこにはあった。あの時彼女が手を振り払ってなかったら、いったい、僕はどうしていただろう――…。
最近はいつもそうだ。幼い頃は君が僕を追いかけていたはずなのに、今は気づけば僕の方が君の姿を求めている。君が僕の傍にいる理由を――僕が君の傍にいる理由を――必死に探してる。他の誰よりも僕のことを考えていてほしいなんて、君には絶対に知られたくないことばかり望んでる。

そんなことを考えてじたばたしている僕は、傍から見ればすごく格好悪いに違いない。
それなのにこの頃は、そんな自分も悪くない、なんて思ってしまうんだ。

鬼太郎は観念したように溜息をつくと、柚子をぽちゃんと湯の中に落とした。

これから柚子を見るたびに、君のことを思い出してしまうんだろう。
君にもそうであってほしい――ああ、ほらまたこんなことを考えてる。
でもこんな風に。
僕の周りにあるものが、全部君に繋がってるっていうのは。

きっと。
とても素敵なことなんだ。





 ―了―

 

しおさんの運営されるブログサイト「今日も元気だね。」の

一周年記念に配布されておりましたフリーssを頂きました。 

 

心がホッとするようなステキなお話ですね(*´∀`人)

しおさん、本当にありがとうございました!!

 

 

 

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