「happy new year!!」

 

 

 

 

 


 

 

――鬼太郎さんへ。
 こちらは晴天でとっても気持ちがいいです。
 天気予報でもこれから暫くは晴間が続くって言っています。だから、きっと綺麗な初日の出を拝めそうです。
 写真を撮ったら、今度見せてあげるね!
 猫娘さんや皆さんにも宜しくお伝えください。
 
 ハワイ島にて    ユメコ――

 

 鬼太郎はハワイの海が一面に広がる写真付きの葉書を見ながら微笑みを浮かべた。
 今頃、ユメコの一家はハワイの暖かな――暑い位の気候の中、団欒(だんらん)の時を迎えているのであろう。
 「ハワイ、かぁ」
 随分また遠い所のように思う。同じ地球の上なのに、雪が降りそうな程寒い日本とは全く環境が違う。
 「ハワイの初日の出って、どんな感じなんでしょうね、父さん」
 鬼太郎は傍らで茶碗風呂に浸かっている目玉親父に目をやった。父はぽちゃりと水音を立てながら手拭いで目玉の頭を拭った。
 「どこから見てもお天道様には変わりなかろう。日本でも海外でも日の出は美しいものじゃ」
 と、さも当然の事を言われた。それは分かってるんだけどな、と、内心鬼太郎はそう思いながら父の言葉に苦笑してみせた。
 写真に写るコバルトブルーの海は透明に輝き、とても暖かそうで魅力的だ。この写真、猫娘にも見せてやろう、と、鬼太郎が思っていた矢先――外から慌しい気配が飛び込んできた。
 「鬼太郎さんっ、大変です!」
 シーサーだった。血相変えて呼吸を乱しながら、簾を持ち上げた。
 「どうしたんだ? シーサー」
 また妖怪絡みの事件なのだろうか、と、鬼太郎が気を引き締めると、シーサーは思いもよらない言葉を吐き出した。意外――しかし、鬼太郎にとってはある意味重要な事かも知れない。
 「ねっ、猫娘さんが……怪我したんですっ」
 鬼太郎はシーサーの台詞を最後まで聞かずに家を飛び出した。

 


 「大袈裟だなぁ」
 クスクスと猫娘が笑う。
 妖怪アパートの一室で、猫娘は布団の上に足を投げ出して座っていた。傍には砂かけ婆が居て、処置道具の後片付けをしている。包帯やら膏薬等を箱に入れ、蓋をした。
 猫娘の右足には下腿より下、踵まで添え木(シーネ)固定された痛々しい包帯が巻かれていた。乱暴に部屋の戸を開け、猫娘を見た鬼太郎は彼女の元気そうな様子に力が抜けたように思わずその場に座り込んでしまった。
 元気そう、と言っても、骨折している訳だ。
 「……心配させないでくれよ」
 「あらっ。鬼太郎ってば心配してくれたんだぁ」
 猫娘の目が輝く。鬼太郎はバツが悪そうに口籠るが、はっきりと「心配していたさ」と言えない自分の性格が少々憎らしかった。
 「当り前じゃろ。鬼太郎じゃなくても誰だって心配するわい」
 砂かけ婆が助け船を出すように言葉を添えてくれた。「猫妖怪のお前さんが怪我なんぞな」
 「そうだよ。全くドジだよな、猫娘」
 砂かけ婆の助け船に気を取り直した鬼太郎にいつもの軽口が飛び出した。猫娘はぷくりと真っ赤な頬を膨らませた。
 「あーあ。でもこれじゃ、行けないなぁ。初詣」
 猫娘は心底残念そうに天井を仰いだ。壁に掛けてあるカレンダーを見る。今日は十二月三十一日――大晦日。
 「初詣なんて、別に行かなくてもいいじゃないか」
 鬼太郎がそう言うと、猫娘は急にむくれた。
 「ヤダ! あたしすっごく楽しみにしていたんだからねっ。絶対にみんなで有名な神社に初詣するんだって! 鬼太郎だって楽しみって言ってくれたじゃない」
 確かに言った。
 しかし、それは猫娘があまりにも嬉々と話すからであって、鬼太郎の本心じゃない。
 そもそも猫娘が行きたいと言い出した場所は人間界の有名な神社なのだ。初詣となると参拝者数が驚くほどに増えるという。……僕たちは妖怪だろ、と、言ってみた所で猫娘は聞く耳を持たない。「大体鬼太郎は人間かぶれしてるじゃない」と、きつい一言を言われ――喧嘩なんぞをしてしまった。
 気の強い者同士、喧嘩は本来はしたくないのだが……。これは鬼太郎の方が折れて――仲間の仲裁もあったのだが――漸く仲直りしたのがつい最近。
 猫娘は経緯はどうであれ、嬉しそうだった。
 おばばに新しい着物を新調してもらったの、と、言っていた。そうはしゃぐ幼馴染は何だか可愛いものである。だから、鬼太郎も密かに楽しみにしていた。
 だが、骨折した右足は腫脹して痛々し過ぎて、初詣等行けるものではない。沢山の人間の波にもまれる事になる訳だから、行かせる訳にはいかない。
 「――残念じゃが、今年は見送りとするか」
 砂かけ婆が道具を仕舞った箱を膝の上に置いて、言った。
 「嫌嫌嫌っ!」
 猫娘が激しく首を振り駄々をこねた。「楽しみにしてたのっ。お守り欲しかったのっ。みんなと……行きたかったの」
 全く……どっちが人間かぶれなんだか。
 「ふう。お前さんも随分我儘じゃの――分かった」 
 砂かけ婆が言った。猫娘の目が期待に満ちて大きく見開かれたが、砂かけ婆が言った次の言葉は猫娘の期待通りではなかった。が、この場では正しいと思う折衷案であった。
 「初詣は鬼太郎とわし等だけで行く。猫娘はここで留守番じゃ」
 「えっ、ちょ……」
 「その代わり、お前さんが望むお守りを買(こ)うてやる」
 それ以上の妥協は無いぞ、と、言わんばかりの砂かけ婆の視線に、さしもの猫娘も口を閉ざした。
 「……分かった」
 不承不承(ふしょうぶしょう)な様子で猫娘は骨折していない左足でトントンと床を叩いた。
 「よし。じゃあ、猫娘のドジが治るようなお守りを買ってきてやるよ」
 「何よそれっ」
 鬼太郎の軽口に猫娘が両手で抗議した。
 鬼太郎は声を出して笑った。

 


 しかし、猫娘がいない初詣がそれ程楽しいものではない事を、鬼太郎は知っていた。もともと乗り気ではなかったという理由もある。だが、それよりも何よりも。
 「どうしてっ……人間たち、はっ、こういうものが……好きなんで、しょう、ねっ」
 神社の境内は黒山の人だかりで、大晦日の真夜中に先が分からない程の人、人、人。決して暇な人間たちと蔑みはしないが、あまりの多さに呆然としていると足を取られ、転びそうだ。華やかな晴れ着、振袖姿の女性や厚着の男性たちの間をはぐれないように皆で手を繋いで歩くのは少々間抜けで、鬼太郎はやはり後悔する。
 「日本人の信仰心がこれ程強いものとは聞いとらんぞ」
 「じゃが、行事ものは好きじゃからの」
 砂かけ婆と子泣き爺の声が、人間たちの話し声にまぎれて聞こえてくる。押され、揉まれしているのだろう。会話にくもりがある。
 「仕方が無いぞ、鬼太郎。もう少しの辛抱じゃ」
 「はい、父さん……」
 鬼太郎の頭上で檄を飛ばす目玉親父に、今し方女性の着物の帯で顔を叩かれそうになった鬼太郎は何とか答えた。
 こんな目に遭うっていうのに、それでも行きたいって願う猫娘の心境は理解出来ない。鬼太郎は内心激しく毒吐いた。しかし、こんな所に怪我をした猫娘を連れて来なくて本当に良かったとも、思っている。
 ――どれだけの時間を費やしたのかも分からなくなる程、鬼太郎たちはゆっくりと前進し、やっと参拝の順番が来た。父に教えられ、賽銭を入れ、何とか鈴も鳴らし、二拝二拍手一拝を済ませる。心の中で密かなお願い事を呟き、漸く解放された。
 既に、年は明けている。新年である。その新年の最初の“仕事”がこれでは先が思いやられる気がする。人混みに酔っただけで疲労感に脱力している鬼太郎は、境内脇の小さな岩に腰を下ろし、溜息を吐いた。
 「御苦労じゃったの、鬼太郎」
 砂かけ婆が苦笑する。自分よりも元気そうなこの矍鑠(かくしゃく)とした老人に、鬼太郎は舌を巻いた。
 「元気だなぁ、おばば」
 「そうでもないぞ。わしかてもう草臥(くたび)れたわい」
 肩をトントンと叩く仕草で砂かけ婆が言う。鬼太郎は子泣き爺が近くにいない事に気付いた。
 「おばば、おじじはどうしたんだい?」
 「ん? あ奴は神酒が振舞われると聞いての、いそいそと行きおった」
 「何? 神酒?」
 鬼太郎の髪の中から神酒という単語に反応した目玉親父が、目玉の顔を輝かせて出てきた。
 「砂かけの。そこへわしを連れて行ってくれんか?」
 「父さん?」
 「それは構わぬが、鬼太郎はどうするのじゃ」
 目玉親父は鬼太郎の驚きの声を聞き流すように、ひょいと砂かけ婆の手の中に飛び乗った。
 「鬼太郎は帰ったがええ。いくらシーサーが一緒だと言っても、猫娘も淋しがっておろう」
 父には丸解りだったのであろうか。
 鬼太郎が道々猫娘の事を考えていたという事を。鬼太郎の頬にうっすら赤味が差した。が、急に鬼太郎は肝心な事を思い出した。
 「――僕、お守り買うの忘れた」
 「そうだと思った」
 砂かけ婆が呆れたような、それでいて知っていた言わんばかり鬼太郎に小さな紙袋を手渡した。
 「猫娘に持って行ってやりなさい」
 砂かけ婆が買った猫娘へのお守りである。中身は薄桃色の小さなお守り。おばばの配慮か、匂い袋まで入っていた。鬼太郎は破顔した。何の御利益かまでは確認せず、紙袋に戻した。
 「有難う、おばば」
 「なぁに」
 満足そうに砂かけ婆は頷いた。
 鬼太郎は立ち上がり、先程までの疲労感はどこへ行ったのか、信じられない位元気良く走りだした。
 

 きっと、猫娘は喜んでくれるに、違いない。
 そう思うと、自然と足取りが速くなるのだが、鬼太郎本人にはその自覚が無かった。


月はゆっくり西に傾き、新年最初の夜も少しずつ過ぎて行く。
 吐く息が白い。雪が降らないだけで相当に寒いゲゲゲの森の中を、上気した頬の鬼太郎は全く寒さを感じる事もなく、全力疾走に程近い走りで猫娘が居るであろう妖怪アパートへ向かっていた。
 アパートはその殆どの窓から灯りが消えているが、只一室のみやわらかな光を灯していた。猫娘が居る部屋である。
 起きていてくれたんだ――当り前か。
 息を整えながら淡く笑んだ。手の中にある砂かけ婆からのお守りを握りしめ、鬼太郎はアパートの中に入って行った。
 玄関を開け、静かに歩を進めている筈だが、己の下駄の音が驚く程響いて聞こえる。全身で音を感知しているような鬼太郎は、自分が殊の外緊張している事に気付いた。
 只、猫娘に会うだけなのに。
 もどかしさすら感じる足取りで、やがて鬼太郎は猫娘が居る部屋の前に立った。
 ノックをする。
 「猫娘?」
 遠慮がちに声を掛けてみた。
 暫くして、部屋の中でバタバタと慌しい音が聞こえてくる。猫娘だろうか。使えない片足を庇いながらこちらに向かっている様子がありありと浮かぶ。無茶しなければいいんだけど。しかし、何だか微笑ましい。
 ガチャリ。と、鍵が開いたのを知って、鬼太郎は自ら戸を開けた。
 「きた……ぅわっ!?」
 猫娘も戸を開けようと体重をかけていたのであろう。同じタイミングであった為、バランスの悪い姿勢の猫娘が前につんのめった。鬼太郎は慌てて猫娘の身体を支えた。猫娘は鬼太郎の肩にしがみつき、辛うじて転倒を免れた形になった。
 互いの呼吸が近い。ふたりは同時に真っ赤になり、バッと勢いよく離れた。
 「ひやっ!」
 当然猫娘は再びバランスを崩す。鬼太郎は猫娘の手を取り、尻餅を防いだ。片足と鬼太郎の助けで何とか立ち直した猫娘は、ふう、と、息を吐いた。
 その顔は、熟れて赤い。
 きっと同じ位自分の顔も赤いのだろうなと、鬼太郎は考えていた。
 「有難う。助かったわ」
 猫娘が礼を述べる。どういたしましてと言う鬼太郎は、部屋の奥に鎮座するシーサーがニヤニヤ笑いながらこちらを見ていたのに気付いた。鬼太郎が軽く睨むとシーサーはそっぽを向き、鳴らない口笛の真似等をしてみせた。わざとらしいと思いながらも、それ以上の追及は止める。
 「全く君は無茶ばかりするなぁ」
 猫娘に手を貸しながら鬼太郎は彼女を部屋の中に誘(いざな)った。俯きながらも素直に応じる猫娘はぴょんぴょん飛び跳ねながら中に入り、鬼太郎に勧められてテーブルの前に腰を下ろした。
 テーブルの上には今まで飲んでいたのであろうミルクココアが少しだけ残っている。部屋の中も仄かにココアの香りに包まれている。
 「あ。鬼太郎も飲む?」
 鬼太郎がココアに興味を示したのを知って、猫娘は気を利かせてココアを淹れに立ち上がろうとする。鬼太郎とシーサーが止めた。
 「いいよ猫娘。いらないって」
 「僕が淹れに行きますから、おふたりはどうかここに居て下さい」
 鬼太郎に止められ、シーサーが身軽に動き、猫娘は渋々座り直した。「大丈夫なのに」と、ぶつぶつ文句を言う猫娘が全くいつも通りで少しだけ可笑い。
 「――で、鬼太郎。どうだった?」
 シーサーが台所に消えたのを見て、猫娘は訊ねてきた。
 「うん。凄い人だかりでへとへとさ。もう、あんなのはごめんだよ」
 鬼太郎は正直な感想を述べた。
 「鬼太郎らしいや」
 猫娘はコロコロ笑った。鬼太郎は笑顔の猫娘の前に、砂かけ婆からのお守りの入った紙袋を置いた。
 「はい。これ、お守りだよ」
 「うわっ。嬉しい! 有難う」
 猫娘は喜んでそれを手に取った。紙袋を開け、薄桃色のお守りを灯りに透かせるように持ち上げてしげしげと見つめていた猫娘は、急にポッと頬を染めた。
 「ね、これ……。鬼太郎が選んだの?」
 何でそんな事を訊くのだろう、と、鬼太郎は思ったが、自分が選んだ訳ではないものである為、誤魔化さずに本当の事を言った。
 「ごめん、違う。それ、おばばが選んでくれたんだ」
 「やっぱりね」
 ホッとしたような、それでいて残念そうな猫娘の口調が少しだけ気になったが、それを訊きだすのは止めた。追及しない方が良いのでは、と、何故か思ったのだ。
 「別に急がなくても良かったのに、わざわざ持ってきてくれたんだね」
 猫娘は両手にお守りを大事そうに持って、言った。お日さまのような笑顔に、鬼太郎は思い出してポケットからユメコが差し出した写真付き葉書を猫娘に見せた。
 「ほら、猫娘。ユメコちゃんからだよ」
 「ユメコちゃんから?」
 怪訝そうな猫娘の表情だったが、葉書を見て、その表情は一変した。
 「わあっ。素敵! ユメコちゃんハワイに行ってるんだ」
 写真の中の青い海の光に見入られたように猫娘はうっとりした。暫く写真とユメコからの文面を交互に見ていた猫娘は、やがてほうっと溜息を吐いた。
 「いいなぁ、初日の出かぁ。ハワイの海から見る初日の出って、きっと綺麗でしょうね」
 初日の出なんてどこから見ても同じじゃないかと言い切った彼の父親とは違い、猫娘はその土地土地にロマンティックな思いを寄せる。――あ。もしかしたら僕はこういう言葉を聞きたかったのかもしれない。と、鬼太郎は思い、そして、急にある事を考え付いた。
 

 「猫娘、初日の出を見に行こう!」
 「ええっ?」
 「初日の出!」
 

 戸惑う猫娘にお構いなしに鬼太郎は畳み掛けるように言う。
 「そうだ。猫娘、着付けは出来るんだろ? 着物位はひとりで着れる? だったらそれを着て見に行こう! ――幸い、まだ時間はあるし」
 鬼太郎は壁掛け時計に目をやりながらまくし立てた。ひとり思考を残されたような顔の猫娘はぽかんと口を開けている。
 「鬼太郎さん、初日の出を見に行くんですか?」
 ココアを淹れて戻ってきたシーサーが羨ましそうに言った。
 「そうさ。……ああ、シーサーには悪いけど、留守番していて欲しい」
 「留守番~?」
 当然文句を言われるだろうとは思っていたが、鬼太郎は流した。流して、止めを刺した。
 「当り前じゃないか。誰が父さんやおばばたちに報告するんだい」
 暗黙裡に。
 お邪魔虫はいらないんだと言われているようで――否、実際鬼太郎のシーサーに向ける隻眼の冷たさは「お前はここに残れ」と命じているように見える……。
 「分かりましたよぉ、鬼太郎さん」
 自分だって明らかに邪魔者になりたくはない。シーサーは下唇を突き出しながら了解した。
 ――鬼太郎とシーサーのやりとりを、口を開けたままの猫娘は回らない頭で見ていた。
 只、“初日の出”というフレーズのみが、頭の中でリプレイされる。
 鬼太郎と……初日の出。
 鬼太郎と……!
 それを、その言葉をやっと理解出来た頃、鬼太郎は部屋をぐるりと見回して壁に掛けてあった猫娘が着る予定でいた振袖を見付け、下ろしてから猫娘の前のテーブルをずらし、呆然と見ている彼女の目の前にふわりと置いた。広がった振袖は、猫娘の目の前で鮮やかな赤い花が咲き誇るような光景だった。
 「え、と……あの、ね、きたろ……」
 「さ。これを着替えて。僕は外で待ってるから。用意が出来たら呼んでくれよ」
 猫娘が何かを言いだす前に、鬼太郎はすっと立ち、シーサーを連れてさっさと部屋から出て行ってしまった。
 「あ……」
 ぱたん。と、戸が閉まる無情ともいえる音が猫娘に残された。
 「あの……鬼太郎……さん?」
 猫娘の意思等、どこにあろうか。
 呆れ、そして少々腹立ちもあったが、しかしそれ以上に――この胸のくすぐりと頬の歪みは何なのだ。
 「全く勝手なんだから。こっちは怪我してるっていうのに、これ着るの……大変なんだぞ」
 そう言いながら猫娘は、はにかみながらも振袖に手を伸ばした。

 


 普段洋装の者が和装――振袖――になるのが時間のかかるものなんだという事を、鬼太郎はそれ程理解はしていない。ましてや今は猫娘は下腿を怪我している身だ。いつもの調子で着衣するなんて出来やしない。妖怪アパートの廊下の窓から見える夜の景色はまだ暗く、日の出にはまだ先であろうとは分かっているが、それでも鬼太郎はカンカンと下駄の歯を床で鳴らしたりして軽い焦りを隠せなかった。
 「――お待たせ」
 部屋の中から遠慮がちに声がかけられた時、漸くかと鬼太郎は勢いよく部屋の戸を開け――絶句した。
 振袖を艶やかに着飾った猫娘がそこに居た。
 白地に赤系の大輪の花が流れるように描かれた振袖に、濃い色目の帯が引き締めている。とても、綺麗であった。
 「へへっ。急いだから変じゃないかな」
 袖を持ち上げて猫娘は照れ笑いを浮かべた。
 赤い花みたいだな。猫娘から何かいい香りがする。あ、これってもしかしてお守りと一緒にあった匂い袋? ――鬼太郎の頭の中ではぐるぐると思考が廻っているが、言葉にならない。
 つまり、見惚れてしまったのだ。
 我に返った鬼太郎はぶんぶんと強く首を横に振った。見惚れていた、照れていた、なんて恥ずかしくて口に出せないが、その分表情は能弁で誤魔化しが効いていなかった。
 「鬼太郎ってば無茶言い過ぎだよ。あたし、怪我してるんだからね」
 振袖の裾をちらりと持ち上げると猫娘のシーネ固定された右足が覗かれる。
 「あ、ごめん」
 「いいけどね、別に」
 鬼太郎の謝罪に猫娘はふふっと笑いながら軽く答えた。
 鬼太郎は取り合えず猫娘の手を取った。怪我をしている彼女の足にならないといけない。
 「じゃ、行こうか」
 「行こうってどこへ? まさかアパートの上? 鬼太郎の家の屋根の上?」
 「まさか。もっと見晴らしのいい所。ここから海の見える丘まではそう遠くないだろ?」
 海から望む朝日を見せたかった。それはユメコがハワイの海から見るだろう初日の出と比べても遜色ないものであろうし、どれ程のものを見せてくれるであろうかも知りたかった。
 確かに、父の言う通り同じ地球の同じ日の出である。猫娘の言う通りハワイの海は鮮明で美しい日の出を見せるであろう。しかし、日本だって美しい。同じ美しさでも見るその時の感情によって、鮮やかさに相違があるのではないか――鬼太郎は、初日の出を見ようと決めてからずっとそう考えていた。
 だから、どうしてもこの娘と瞻(み)たかったのだ。
 「うん。そうだと思うけど……」
 猫娘は言葉を濁すように話した。「鬼太郎、あたしさ……」
 「だから、一反木綿に頼めばすぐだろ?」
 「――鬼太郎忘れてる? 一反木綿、今鹿児島に帰省中だよ」
 「……あ」
 ……すっかり、綺麗さっぱり忘れていた。
 鬼太郎は頭を抱えて蹲った。自分の突発的衝動的な企画の前に、出鼻を挫く痛恨の一撃をまともに食らったようなショック――頭が痛くなった。
 「だっ、大丈夫よ鬼太郎。あたし、アパートの上でも鬼太郎の家でも、初日の出さえ拝めればそれでいいんだし」
 落ち込む鬼太郎を必死でフォローする猫娘の何と甲斐甲斐しい事か。彼女にそこまで気を遣わせる自分の何と不甲斐ない事か。
 このままじゃ、いけない。
 「よしっ」
 鬼太郎は意を決した。そして――行動に移した。
 「え?」
 驚く猫娘にお構いなく、鬼太郎は猫娘の膝裏に手を回し入れ、己に近付けて肩を抱く。そして、次の瞬間には猫娘の身体はふわりと地面から離れた。
 「………!」
 突然抱き上げられた行為に、思わず猫娘の猫の本能的なものが爪をカッと突き立ててしまった。
 「痛いって、猫娘っ」
 「あ! ごめんっ」
 鬼太郎の歪めた顔に慌てて猫娘は爪を戻した。戻してから鬼太郎に爪を立てた腕なんぞをさすってみたり、「わざとじゃないのよごめんね」とそう言いながら……でも、あれ……? そうじゃなくて、ですね。鬼太郎さん……?
 「これでよし」
 鬼太郎ひとりだけが納得し、猫娘は……どうしていいのか分からない。嬉しいのか恥ずかしいのかも、分からない。
 心の準備なんてもの全くないのに、横抱き――お姫様だっこ――されて、どういう顔すればいいってのよっ!
 まともに顔なんて見れる訳ないじゃないっ。
 「きたろ……」
 「しっかりつかまっててよ」
 「でもっ、きゃっ?」
 猫娘に何か言わせる余裕も与えず、鬼太郎は走り出した。猫娘は振り落とされないようにしがみついているのに必死であった。
 自分の心音が激しく高鳴る。耳に響くその音、鬼太郎に聞かれてはいないかと思うと、猫娘は恥ずかしさでこのまま死んでしまいそうだと思う。死因――恥死、なんて洒落にもならない。そんな冗談でも思っていなければ猫娘の動揺と羞恥心は誤魔化されないままだ。
 ぎゅっと目を瞑(つむ)り、鬼太郎の胸許に顔を埋める。鬼太郎の心音も頻拍しているのが分かる。それは、こうして全力に近い走りをしているから……? 否、もしかしたら……鬼太郎も、照れてるんじゃないのだろうか。
 ――夜の外を走る鬼太郎にしがみ付く猫娘の頬に冷たい風が当たる。けれど、寒くなかった。むしろ、あつい位であった。早くこの恥ずかしい時間が過ぎればいいのにと思う反面、このひと時が永遠に続けばいいとも猫娘は思う。二律背反だ。
 星の数が減ってきた。もうすぐ日の出かもしれない。
 鬼太郎は森を越え、民家の屋根を跳び、人間の作った道等無視して一直線に目的地へ向かった。――休む事無くせわしく鳴り響いていた鬼太郎の下駄が、急に止んだ。鬼太郎の足が止まった。
 「着いたよ、猫娘」
 鬼太郎が肩で息をしているのが分かる。その身にしっとり汗が滲んでいるのも、分かる。きつく目を閉じていた猫娘はそっと目を開けた。鬼太郎と目が合う。鬼太郎の目が笑っていた。だから、猫娘も笑い返した。
 猫娘は目を転じた。
 まだ薄暗い闇の中、細く、淡く、光の欠片が生まれそうだった。
 猫娘は鬼太郎の腕の中から降りた。数歩ぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩いたが、思うように身体が動かず、結局その場に座り込んでしまった。
 振袖が汚れる。けど、そんな事はどうでもいい。
 今、目の前に広がりつつある荘厳な世界の中では全ての事は矮小なものだ。
 ――丘から見える海は晦(くら)さの中から小さな光を生み出していった。小さな光は天と海の境より横一文字に真っ直ぐ伸びる。
オレンジ色のあたたかく優しい光がどこまでも伸びて行く。天の昏(くら)さは次第に薄れ、天蓋の深い黒にやがて青味が加わり、水平線から昇り始める一瞬の燃えるような赤がそれと交わる。新たに生まれた赤紫色の輝きが猫娘の瞳に映り込み、不思議な光を湛えた猫娘の目の色が海と同じく――否、それ以上に輝いた。
 星は消え、そして――暁光。
 天と海の境界から冬の凛とした空気を裂くように眩しいばかりの黄金色がすっと走った。海に、光の道が出来る。光の道は只一筋に猫娘に向かっているように見えた。
 荘厳。そして、絶景、神秘。
 「綺麗……」
 猫娘は見入ったまま静かに呟いた。
 「良かったぁ。間に合ったよ」
 心底気が楽になったような鬼太郎が猫娘の隣に座って力を抜いた。初日の出に照らされた鬼太郎はオレンジ色の光と夜がまだ残る影に彩られていた。それは――その笑顔は何だか綺麗なものに見えた。
 「ああ、疲れたぁ」
 そう言うと、鬼太郎は両手両足を伸ばしてごろんと寝転がった。それはそうだろう。いくら力のある男の子だとしても、猫娘を運んでひとり全力疾走すれば、否が応でも疲れるのは当たり前だ。
 「お疲れ様、鬼太郎」
 猫娘のねぎらいの言葉に鬼太郎はひらひらと片手を動かして答えた。
 猫娘は肩を竦めてクスクスと笑った。
 何て優しい時なんだろう。そして――何て大好きなひとなんだろう。少々抜けてる所があっても優しくて一生懸命で……好きなならない筈はないじゃないか。
 

 「鬼太郎」
 猫娘は静かに鬼太郎に近付いた。鬼太郎は目を閉じて気持ちよさそうにしている。
 「有難う」


 いとおしい気持ちは行動に移る。
 猫娘はそっと鬼太郎に擦り寄り、その頬に、キスを落とした。
 鬼太郎が驚いて目を開けて身を起こした時には、猫娘は離れて、両手で己の火照った顔を隠すように背を向けていた。
 鬼太郎の頬が熱い。甘く痺れるように、とても熱い。動悸が激しく、心臓が口から飛び出しそうな程、それは息苦しく――自分自身をそうさせた元凶である猫娘を見ると、途端にある感情が湧いて出てきた。


 ずるい――と。
 猫娘、それは、ずるい。


 鬼太郎は急に咽喉(のど)の渇きを覚えた。心拍数が更に上がり、掌に汗がじんわりと滲む。交感神経が活発に動いているのが良く分かる。鬼太郎の目は猫娘だけを見ていた。初日の出等、見えちゃいない。陽に照らされて光を纏う猫娘のみを見ていた。
 「猫娘」
 鬼太郎が呼びかける。その強い言葉の響きに猫娘の肩がぴくりと跳ねた。それでも振り返らない猫娘を、鬼太郎は逃がすつもりは無い。
 猫娘の肩をつかみ、半ば強引に自分の方に向ける。意外な事に猫娘からは然程の抵抗は無かった。鬼太郎は猫娘の肩をつかんだ手を離し、彼女の顔を両手で包んで、己の方へ向かせた。
 猫娘の大きな目が見開かれる。その目に鬼太郎の真剣な顔が映った。咄嗟に身を捩っても、抗いがたい力は彼女の全てを拘束する。
 目を閉じることも忘れてしまった猫娘の唇に、鬼太郎の乾いたそれが、今……重なった。
 その瞬間、ふたりの身には甘さを含む痺れが走った。
 猫娘は両手を強く握った。震えているのが分かる。自分の身体、そして、鬼太郎もまた、震えている。
 不器用なキスは甘さの余韻を残しながら、静かに離れた。音のない静かな行為に心だけが取り残されたような猫娘の表情が、あまりにも切なく、そして、艶やかにいとおしく感じた。
 こんな気持ちになったのは、初めてだ。
 彼女は大切な仲間だし、一生傍らに居て欲しいと願うパートナーである事は間違いはない。しかし、そこには今自分が感じている恋情の濃さが無い。自分は男で彼女は女なのだという、事実に基づく欲情に似た恋情に、鬼太郎は戸惑う。しかし、戸惑いながらもそれは自然な事なのだと思えていた。
 猫娘が俯き、袖で顔を隠した。
 「ずるい……きたろ」
 そして、か細い声でぽつりと呟きを投げかける。
 「先に仕掛けたのは猫娘じゃないか」
 「でもっ」
 猫娘が顔を上げる。怒っているような、困っているような、そんな顔が鬼太郎に向かうが、目が合った途端にすぐ視線を逸らされてしまった。
 「……嫌だったのかい?」
 鬼太郎に一抹の不安が過る。猫娘は首が千切れんばかりに強く横に振った。
 「それ聞くの。そんな事無いよ……だって……そんな急に」
 「………」
 今や鬼太郎の心臓はこれ以上ない程早鐘を打っている。それでも最大限の勇気でもって事に及んだのに――猫娘はちゃんと分かってくれているのだろうか。
 お互いの心情を余さず吐露するには、まだ早いのだろうか。
 鬼太郎は地面を引っ掻いている猫娘の手を取って、包むように握ってみた。一瞬震えた猫娘の指は、しかし、静かに自分を受け入れてくれたように鬼太郎は思えた。
 「――おばばのお守り、早速効果が現れたわ」
 クスリと咲(わら)いながら猫娘が言った。
 嗚呼、そうか。
 鬼太郎は思う。お守りを手にした時の真っ赤な顔の猫娘の顔の正体は、お守りの内容であったのか。
 「ははははっ」
 鬼太郎は声を出して笑った。つられるように、猫娘も笑った。

 

 波が光を孕み、輝く。
 初日の出はその姿を全て現し、世界を黄金色に染めた風を吹かせた。

 

 

「happy new year !!」

 

 

やりました!頑張りました!

戸田君、やれば出来るじゃない!!(爆)

大和さん、とっても素敵なお話、ありがとうございました!!

 

 

 

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